2018-11-05
物心不二(2) 脳と心
科学も仏教も体と心が結びついているとする点では同じですが、違いもあります。
心は生死を越えると説く仏教は、どちらかというと心に重きを置きます。-方、科学は体の一部である脳の働きによって心が生じるととらえます。脳あってこその心であって、その逆ではありませんから、科学は脳すなわち体を優先しているといえます。
科学はドーパミンやアドレナリンなどの脳の中の物質が心の状態を左右するということを発見しました。さらに、そのような脳内物質の分泌を促したり、抑えたりする薬が開発され、心の病の治療に用いられています。一定の効果はあるようですが、薬だけで完治することは難しいようです。
にせものの薬が、本物とおなじような効果を発揮するというプラセボという現象があります。かなりの効果があるようです。心が体に影響を与えることの証拠です。脳内物質の分泌にしても心の状態の影響を受けるようです。
そうなると、セロトニンがでるから幸せになるのか、幸せだからセロトニンがでるのか。はたまた、どちらもあるのか。考えると頭が混乱します。おそらく、脳と心、分かれているようでいて一つ。物心不二だからでしょう。
科学は今以上に発達し、さらに便利な道具が発明され、新らしい技術が開発されようとしています。今後、私たちを取り巻く物の世界は劇的に変化することが予想されています。残念ながら私たちの心はそのことに充分に対応しているとは思われません。
科学は物をとおして、さまざまなことがらをとらえますが、仏教は心が先です。
心が乱れていれば、ものごとの見方がみだれ、生き方が乱れます。逆に心を整え、あるがままを見、そのことに即していけば生き方も整います。この自明の理、頭では分かっていても、なかなか実行できません。なぜ、なのでしょうか。仏教はその理由を踏まえ、賢く生きる知恵を私たちに与えてくれます。
浄土宗が勧める愚鈍念仏も、そのひとつで、誰もが実践できるという点で、とりわけ優れています。念仏は、決して古くさくはありません。物は豊かであるけれども、心が貧相な現代社会にこそ生かされるべきです。
合掌
※ 愚鈍念仏とは他力、つまり自らの思いや計らいを捨てて、阿弥陀仏の救済の力に心身を委ね、ひたすら南無阿弥陀仏と口に称えることです。