2019-09-15
自分を問うて生きる
唯識思想を中心に仏教哲学を説く横山紘一氏は「唯識に生きる」というNHKのテキストの中で、人の思考は「なに」から出発し、次に「なぜ」を問い、「いかに」と発展する。ところが「自分とは何か」という根本的な問いについては、考えようとしないままに大人なる人が多い、と言います。
思い当たる節があります。私の二人の孫にとって、「なに」と「なぜ」と問うことは、周囲のできごとを理解し、成長するための重要な手段です。ところが間もなく古希にとどく私のような年齢になると、今までの経験や、得てきた知識にもとずいて、「なに」、「なぜ」、「いかに」という問いに対する答えをかなりの程度まで知っているつもりになります。また、情報化が進んだ現代では手軽にネットでいろいろなことを調べることもできます。
にもかかわらず、「自分とは何か」と問われると答えに窮します。この問いに答えることは仏教においては必須のことだと思われますが、僧職に身を置きながら、私はこの問いに答えられないことを認めざるを得ません。先にあげた横山紘一氏に言わせれば「自分とは何か」を知ることができなければ、人は迷いの中に空しい人生を送ることになります。
でも、私は幸いにも念仏の教えをいただいています。ひたすらに念仏を称えて日々を暮らして行けば、必ずや阿弥陀仏は「自分とは何か」を教えてくださる、あるいは、それがかなわず「自分が何か」という問いに答えがでなくても、そのままで人生を充実させることができるに違いないのです。
※ 脳やバイオの科学は「人とは何か」ということに一定の解答を与えてくれます。また、科学者や評論家はそれにもとずいて生き方の指南をしてくれます。でも、それらは知識の領域にとどまって、必ずしも「自分とは何か」という問いに得心のいく答えを与えてはくれません。 もしかすると「自分は何か」という問いに対する答えは、言語や数式で表すことができないのかもしれません。そうであれば、科学がこの問いに答えをだすのは非常に困難だと思われます。