2020-12-06
今だけ、金だけ、自分だけ
いまの政治や業界のリーダー達は、「今だけ、金だけ、自分だけ」で、部下や現場で頑張っている人々のためでなく、自らの利益と保身のためだけに、むしろ周りを容赦なく犠牲にする見苦しい方が多すぎます。
(引用 https://www.jacom.or.jp/column/2019/05/190509-37971.php)
と、東京大学の鈴木宣弘教授は、研究室を巣立っていく卒業生を前に、祝辞を切り出しました。
もちろん、教授のねらいは「売り手よし、買い手よし、世間よし」の「三方よし」と対比することで、日本の伝統的価値の実践を若者達に勧めることにあったのですが。
いづれにせよ、民主主義を標榜する某大国の大統領までが、「三だけ」主義に陥っているように思われる今日の風潮は大変嘆かわしいことです。
ただ、人は我執、つまり利己的であること、あるいは怒りやむさぼりなどの煩悩にとらわれています。
また、他人がそうであることは分かるのですが、自分がそうであることには気づけないという、やっかいな性質をもっています。
したがって、他人事としては、けしからんと思っている人でも、身に降りかかる状況によっては、いくらも「三だけ」になりかねません。
だからこそ、仏教に学ぶことが大切です。例えは空間的、時間的なものごとの関わりを説く縁起の法によれば、「今だけ」、「自分だけ」という考えはあまりにも短絡的です。
また、お金自体は、紙切れ、金属片、あるいは機器の中の電気信号に過ぎません。使って得られる、物品やサービスにこそ意味があります。
「金だけ」という考えは、おそらく、金は万能だ、という誤謬にもとずいていますが、むなしく、また、あぶなっかしい考えです。
仏教を学ぶことによって得られる知識はものごとのありようをとらえることに役立ちます。
ただし、知識として止まっているかぎりは、人生の糧にはなりません。知識を身につけ、智慧となったとき、はじめて人生が充実します。
そのことを仏さまの導きにに委ねて、実現していただこうというのが愚鈍念仏です。
コロナウイルス騒ぎで始まった一年が過ぎ、新たな年が始まろうとしていますが、常にお念仏と一緒、そんな人生を送りたいものです。
愚鈍念仏とは、一切の計らいをすてて、一向(ひたすら)にお念仏を称えることで、一枚起請文にも説かれています。