2021-07-20
功徳を積む生き方(2) 信号のない横断歩道にて
令和元年十月に浄土宗に縁の深い福岡県八女市の天福寺を参拝した時のことです。お寺の周囲に駐車場がないため、三百メートルほど離れた八女市総合体育館にバスを止めて、お寺まで歩きました。
駐車場を出てすぐに、道路を横切ることになりました。車をやりすごそうと立止まると、同時に車道上の車が止まりました。どうしたことかと様子を見ていると、後からきた車も止まります。横断歩道の手前で立ち止っていた私たちが、道を渡るのを待っていてくれたのです。
いささかならず驚きました。それもそのはず、JAFの調査によると令和元年当時の「信号機のない横断歩道」での車の停車率は、福岡県で33.6%、福井県は10.4%だったのですから。
二年ほどたった令和三年七月の越前市。オリンピックに備え交通マナーを改善しようと、警察が取り締まりを強化したこともあって、私自身も信号のない横断歩道での停止を心がけています。
自宅近くの病院の前を通ると、抱っこひもで赤ちゃんを抱えた若いお母さんが、向い側の薬局に渡ろうと横断歩道の手前で立っていました。私は安全を確認し、少し手前で停止しました。お母さんは軽く会釈をして横断歩道を渡っていきました。法規に従っただけなのに、ちょっと良いことをした気分になりました。
同じ日のこと、用事を済ませた帰り道、 三叉路で右折をしようと、一時停止しました。すると右側からパトカーが 走ってきました。やましいことはないのに不安になるのは、条件反射でしょうか。
この時、予期せぬことが起きました。パトカーが ヘッドランプを二度、点滅させたのです。一瞬戸惑いましたが、百メートルほど先の交差点まで、車が連なっていたので、交差点の手前で車を止め、私に右折をうながしたのです。
私は安全を確認し、右手を上げてパトカーに感謝しながら、慎重に車を進めました。何だか得をしたような気分でした。
少し走った時「功徳が報われた」との思いが浮びました。私が積んだ功徳とは横断歩道でお母さんを渡してあげたこと、報いはパトカーが右析させてくれたことです。偶然のことといってしまえばそうなのでしょう。でも、同時に功徳を積むことは、難しいことではない、車の運転のような何げない日常の生活の中でできると気づきました。
「地獄のお風呂、極樂のお風呂」というお話があります。
地獄のお風呂は人で一杯です。他人のことはお構いなしで、皆が肘を張り、手を伸ばして、体を洗おうとするので、体がぶっかりあって、諍(いさか)いが絶えません。また、人を押しのけて我先に湯船に入ろうとするので、心も体も安まりません。
極楽のお風呂も人で一杯です。でも、様子はまったく違います。「こちらが空いていますよ。」「お背中、流しましょうか。」皆が他の人のことを気遣って譲りあいます。湯ぶねにつかるときも同じです。「お先にどうぞ。」「ありかどう。」順番を守って交替に入るので、ゆったりと湯ぶねに浸かることができます。「あ~、極楽、極楽。」湯加減もちょうどいいあんばいです。
JAFの調査によると令和二年の福井県の「信号機のない横断歩道」での車の停車率は、19.7%だそうです。全国トップの長野県の72.4%には遠く及びませんが、それでも少しづつ改善しているようです。
辞典には功徳とは「神仏からよい報いを与えられるような、よい行い。」また「世のため、人のためになるよい行い。」とあります。「今だけ、金だけ、自分だけ」という風潮の中でも、いや、そうであればこそ、精一杯、功徳を積みたいものです。