2022-02-11
従衆縁故必無自性
「神や仏を信じても、一文の得にもならない」と言う人がいます。もちろん、自らの努力や注意をさておいて、神仏を拝むだけで、商売繁盛や学業成就、家内安全や交通安全がかなうということはあるはずもありません。
ただ、ものごとは、さまざまな縁によって生滅します。ですから、努力が報われなかったり、また、思わぬ事故や災難に巻き込まれたりすることがあります。人はそのことを経験により知っています。自分また他者の幸せを神仏に願うことは、動物ならぬ人間の心がなせる技で、切なる祈りです。たんに科学的思考や合理性が欠如している、あるいは迷信であるとして片づけるべきではありません。
神社には鏡が祭られていますが『カガミの「ガ」をとると「カミ」になる』という教えがあります。仏教では『おれがおれがの「が」を捨てて、おかげおかげの「げ」で生きよ』と説きます。
ともすると人は自らに執着するあまり、ものごとを見あやまりがちです。我執をはじめとする煩悩の働きを取り除くと、ものごとの本来の姿が見えます。そのとき人はさまざまな縁によって、生かされていることに気づきます。
70年ほど前に、民藝で知られる出雲の出西窯が存続の危機にあったとき、浄土宗の僧侶であり哲学者でもあった山本空外さんは、陶工たちに「従衆縁故必無自性(衆縁によるが故に、必ず自性なし)」という言葉を陶板に書いて贈りました。空外さんは、彼らに「何事もおかげさま。縁によって生じる。自分の手柄など何もない。」と、諭したのです。この言葉を胸に刻み出西窯は、仲間と共に今も生き生きと活動しています。
神仏に手を合わせ、そのおかげに感謝することは、損得勘定にとらわれずに心豊かな人生を送るためには、大切なことではないでしょうか。