2022-03-11
人生、無我無中
運転をしながら思わず「ワッ」と声が出ました。リニューアルオープンしたばかりの越前市の中央公園の方に目をやった時のことです。「ふわふわ雲」と呼ばれる白い雪山のようなトランポリンの上で、30名はいようかという子供たちが、ピョンピョン飛び跳ねていたのです。ほんの一瞬、目に飛び込んできただけなのですが、子供たちが「夢中」になっているようすがうかがい知れました。
ところで私は「夢中」を「無中」と書くと思いこんでいました。ただ、「無我夢中」ということばがあるくらいですから、あながち的はずれともいえません。辞書によれば夢中は「物事に熱中して我を忘れること」とあります。「無中」ということばで私が思っていたのは「とらわれのない心で、熱中する」ということですから、若干意味合いが違っています。
時折、「ふわふわ雲」の近くを散歩することがあります。子供たちが「無中」で跳び跳ねているのを見ると心が弾み、自分もやってみたくなります。もちろん我慢します。なぜなら、看板に「3歳から12歳まで」とあるからです。また、5歳以下の幼児には大人がつきそうことになっています。「ふわふわ雲」に限らず幼い子が遊具で遊ぶときには両親や祖父母が見守つています。子供たちも、ときどき、その存在を確かめて安心して遊び続けます。
私たち大人も子供たちのように無中になることはできないのでしょうか。いや、人生そのものを無我無中で過ごすことはできないのでしょうか?
そんなことはありません。そもそも仏教が目ざすのは「無中」で生きていくことです。わけても、阿弥陀仏やご先祖の見守りの中で、自らが凡夫であることを自覚し、我執にとらわれずに、生きていこうという称名念仏は、誰にでもできるという点ですぐれています。ぜひ、お試し下さい。ふわふわ雲とちがって、こちらは年令制限はないのですから。