2022-06-07
死んだらゴミ?
「死んでいく当人は、ゴミに帰るだけだなどとのんきなことをいえるのだが、生きてこの世に残る人たちの立場は、まったく別である。僕だって、身近な人、親しい人 が亡くなれば、ほんとうに悲しく、心から冥福を祈らずにはいられない。」
これは1988年、63オで早逝したミスター検察と呼ばれた伊藤栄樹氏の「人は死ねばゴミになる」という本の引用です。
題名に反し本書自体は、末期ガンを宣告された著者の闘病記、人生の回想録、また、愛する家族への伝言等で構成された真摯な態度で書かれた随筆です。
死後の世界はないとの想いが彼の「死んだらゴミに帰る」ということばの背景にあります。ただ「故人の冥福を祈らずにはいられない」という彼の心情と矛盾しています。「ゴミである故人の冥福を祈る」などというのは滑稽です。
ところで、「死んだらゴミになるから、故人の冥福を祈るのは無意味だ」、あるいは「故人の冥福を祈るのなら、死後の世界はあるとすべき」などという意見に彼が与することはないでしょう。辻褄が合わなくても、冒頭の引用は彼の本根に違いありません。
伊藤氏のように自らの死と、他者の死に対する想いに、齟齬がある人は少なくないようです。また、人は死に対して矛盾した態度を取ることがあります。
たとえば、「思い出すことが功徳になる」と言って忘れることを戒(いまし)めるかと思えば、悲嘆に暮れている人には「忘れてあげないと浮かばれない」と言ったりします。また、「安らかに眠って」と、送り出した故人に墓前で語りかけて、寝た子を起こすようなことをします。
阿弥陀はamitaというインドの古語の音写です。漢字で表すと「無量(量ることができない)」になります。
所詮、仏さまやご先祖さまのおられる彼の岸は計り知れない不可思議の世界です。あれやこれやと論じ尽くすことも、感性を研ぎ澄まして感知することもできないのでしょう。
近頃、死後の世界はあるはずがない、あるいは死後の世界の存在を単なる心のなぐさめと決めつけ、葬儀や法事をしなくてよいとする風潮があります。本当にそれでよいのでしょうか。人の心の荒(すさ)びが危惧されます。
人知を越えた世界に想いをはせ、他者および自らの冥福を祈ることは、人として自然なことです。また、己の弱さを自覚し、無量の存在である南無阿弥陀仏を頼むことは、決して迷信の類いではありません。心豊かな人生を送るための祖先からの伝承ではないでしょうか。